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映画「アメリカン・サイコ」を観た。無関心という名のサイコパス

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アメリカン・サイコバットマンシリーズでおなじみのクリスチャン・ベール主演の映画で、今回彼は完璧主義の殺人鬼を演じています。

 

目次

 

 

アメリカン・サイコ 」あらすじ(ネタバレ含む)

パトリック・ベイトマンは27歳ながら会社でも重役のいわゆるエリート。彼は完璧主義で自分の肉体に対して異常に気を使い、顔がむくめばアイスパックをし腹筋を1000回もする。しかし彼は血に飢え、殺しの衝動を抑えきれなくなっているサイコパスでもあった。パトリックは自分を別の人と勘違いし、目の前で悪口を言ってきたライバルであり同僚のポールを殺す。しかし犯行後、死体を入れた大きなカバンを車に積んだところを知り合いに見られてしまったので殺したポールをロンドンに旅に出たことに細工する。

その後ポールの失踪を調査している探偵とランチしてパトリックにはアリバイがあると言われる。名前を混同していて誰かが勘違いして、パーティーにパトリックがいたことになっているのだと悟ったパトリックはその調子に合わせる。

殺人衝動を抑えられなくなったパトリックは前に拾った娼婦と再会しポールの部屋でセックスしたのち殺し、その後も殺人を重ねていく。しかしその後耐えきれなくなり自分の殺人を一つ残らず弁護士に告白した伝言メッセージを残すが、後日直接会って話を聞くと、弁護士もパトリックの名前を覚えておらず、パトリックの伝言を冗談だと一蹴するうえに「自分はポールとロンドンで食事した」と言う。

また、自分が多くの殺した死体を保管しているポールの部屋に行くが、なぜか跡形もなくなっている。そこに管理人の女性がいるがパトリックは冷たく追い返される。罰されたいと願った時には、皮肉にも自分の殺人の証拠は何もなくなっていた。

自分は罰を受けることもなく、誰も自分の言葉を理解していないんだというパトリックの告白でこの映画は幕を閉じる。

 

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殺人はパトリックの妄想?現実? 個人的解釈

この映画はパトリックの妄想だという説もあるようですが、僕はそうは思いません。テーマはあくまで無関心であり、誰もが他人に興味を持っていないからあのようなラストに繋がっているのだと思います。同じブランドのスーツを着て、同じ美容院で髪をセットしている同僚たちはどこか似通っていて、誰が誰だかちゃんと把握していないのです。ポールはパトリックのことをマーカスだと言い、弁護士もパトリックのことをデイヴィスと言ったり、とにかく名前を間違えるシーンが多い。弁護士がロンドンでポールと食事をしたと言ったりしたのも、パトリックの殺人が妄想だからなのではなく、ポールのことを別の誰かと混同しているのです。

また、凄惨な状況だったはずの部屋が片付いていたのもパトリックの殺人が妄想だったからではなく、管理人の女性が事故物件として広告に出る前に始末を業者に頼んだからだと思います。そう考えれば事情を知っていそうなパトリックを冷たく追い返したのも頷けるし、自分のことしか考えていないという点でテーマとしても繋がります。

 

見栄の張り合いの象徴シーン 名刺バトル

パトリックの仕事仲間は友達といっても本当にうわべだけの浅い付き合いですが、その仲間同士で見栄を張り合うシーンとして「誰の名刺が一番イケているか」を競うシーンがあります。字体などにこだわっているんですがこれが本当にしょうもない。。外面だけを気にしていることを表す象徴的なシーンです。

 

  

自分の肉体に対する異常な執着

映画の中でもちょくちょく筋トレするシーンが出てきますが、このパトリックの美意識の高さはもはや異常なレベルです(朝に欠かさずローションをつけて毛穴をキレイにし、クレンジングジェルで体を洗うなど)。またそれだけではなくセックス中に鏡に映った自分の肉体美を見て見惚れているシーンもあり、肉体へのこのような執着は内面への執着の希薄さの裏返しとして描かれているような気がします。

 

観念的なパトリックという存在とアメリカン・サイコのタイトルの意味

最初のシーンでパトリックはこう語ります。

「“パトリック・ベイトマン” ある抽象としての人物像 でも現実の僕自身ではない 幻影だけの存在」

つまりパトリック・ベイトマンという人間はある種の比喩であり、「無関心」を具現化した存在でもあります。

そして「アメリカン・サイコ」というタイトルをつけたのはこの無関心な存在をパトリックに限定しないためだと考えられます。

 

ラストシーンのパトリックの告白

そしてラストシーン。仲間の一人が「あいつの中身は...」と言いかけると、心の中で「中身は関係ない」とパトリックは続けます。そして他人に痛みを与えたところで自分と言う存在が認識されなければ殺人という行為でさえ極めて無感動であるということを告白します。何にも罰を受けず、他人から自分の内面の狂気に関心を持ってもらえないことは永久の痛みであると。無関心、それも人の死に対する無関心というものは確かに何よりサイコパス的なものなのかもしれないです。