大学生の退屈しのぎ

底知れぬ音楽と映画と文学と...

映画「ドッグヴィル」から考える「やられてもやり返さない」美学の嘘。

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ドッグヴィル


Dogville - Trailer

 

主演:ニコール・キッドマン

出演:ポール・ベタニー、クロエ・セヴェニー、ステランスカルスガルド

監督:ラース・フォン・トリアー

 

あらすじ(ネタバレ含む)
ロッキー山脈の麓にある孤立した、ドッグヴィル。村人は23人。そこにひとりの美しい女性、グレース(ニコール・キッドマン)がやってくる。自称作家の青年トム(ポール・ベタニー)は、村人たちに彼女をかくまうことを提案。グレースはトムの計画に従い、無償で肉体労働を始め、徐々に閉鎖的な村人たちの心を開いていく。とりあえず村の一員として認められる彼女だが、やがて警察からの手配書により、強盗に関与している疑いをかけられ、村人たちの態度は急変。村人たちはグレースを奴隷扱いするようになり、リンゴ農園を経営するチャック(ステラン・スカルスガルド)は、彼女をレイプする。そのことを知ったトムは、村からグレースを逃がそうと決意し、トラック運転手のベン(ゼルイコ・イヴァネク)に協力を頼む。しかしベンは裏切り、グレースは村人たちに逃亡防止用の重い首輪をはめられた。連日のように重労働を課せられ、男たちに弄ばれるグレース。ついにはトムまでも彼女との肉体関係を望むが、グレースが断ったため、傷ついたトムはギャングに通報。やってきたギャングのボスはグレースの父(ジェームズ・カーン)だった。グレースは彼との議論の末、自分が家に帰る代わりに、ドッグヴィルを全滅させるよう要望を出す。ギャングの部下たちは村に火を放ち、村人たちを次々に射殺。そしてグレース自身は、トムを射殺するのだった。(MovieWalkerより)

 

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目次

 

感想

さすが鬱映画の巨匠ラース・フォン・トリアーの作品なだけあって、観れば観るほど「人間って...。」と絶望する映画でした。

トリアー監督は以前「基本的に、人生における全てが怖い」と言っていたけど、やっぱり映画を観れば、そんな風に思うほど彼には必要以上に人間の「本質」が見えてしまっているのが痛いほど伝わってくる。

 

抽象化しない人間の姿

 「人間の「本性」を無視した観念的な道徳の無意味さを描く」

こんな言葉がこの映画のWikipediaには書かれている。

この映画を最初に観た時も、ラース・フォン・トリアーという監督は本当に「人間」をよくわかってるなあと感心したと同時に、人間のこんな部分に気づかない方が絶対に生きやすいんだろうなあと、複雑な気持ちに襲われた。

中でもわかりやすく偽善者のトムの行動は、ニンフォマニアックでステラン・スカルスガルド演じた童貞おじさんを彷彿とさせる。ニンフォマニアックのラストでは色情狂の女性と語り明かした「性欲」とは無縁に思われた生涯童貞のおじさんが、その晩その女性を襲いに行ってしまう。そして女性が拒否すると「大勢の男とヤったくせに」と言う。

他の男に性の捌け口にされていくグレースを見て、自分も肉体関係を持ちたくなってしまうという衝動に勝てないトムと、色情狂の女性のこれまでの痛々しい性体験を聞くにつれて性欲を感じてしまう童貞おじさんはどこか似ている。性に傷ついている人にさえも欲情するという人間の生々しく嫌な部分が凄まじく凝縮されている。

 

「トム」というキャラクター

多分観てる人が一番腹立たしくなったのはトムだと思う。薄っぺらくて村人にもグレースにもいい顔をするけど、本当は自分の保身のためにしか行動していないのが透けてしまっている人間。ただ、この「トム」という人間が自分を構成する要素と1ミリも似ていないないなんて言い切れる人間もいないと思う。

そもそも冒頭でトムは作家であり(と言ってもニートと変わらないんだろうけど)物を書く上で一番いいのは「実例があることだ」みたいなことを言っている。だからグレースを引き入れたのもそんな人助けをしたいなんて気持ちからではなく「あわよくば創作のネタになればいいかな」ぐらいの気持ちだと分かる。トムの性格からして困っている人間に冷たくすることは、自分を善良な人間だと信じていてできなかった、というのもありそうだけど。

 

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村人たちの仕打ち

初めは順調に打ち解けていったかのように見えたグレースと村人たち。その関係が変化したのはまず、警察から強盗に関与している疑いをかけられたところから。でも村人たちは、そんな厄介者を匿っているのが怖いというよりは、むしろそんな状況に甘んじてここぞとばかりにグレースに重労働を課しているんですよね。

また、ニコール・キッドマン演じるグレースが名前の通り「美」そのもので悲しいくらい綺麗なんですよね。(Graceは神の恩寵みたいな意味もあるので、村人の欲望を赦す存在としてそんな名前にしたのでしょうか)

ともかく、そんな美しい人間を服従させてもいいと村人たちが錯覚すれば男たちが考えることは一つです。

果樹園のチャックが一番初めにグレースをレイプするんですが、このチャックという人間もとにかく最悪でした。初めはグレースに優しくして「この村はそんなにいい場所じゃないぞ」みたいなことを忠告しておきながら、自分が真っ先にグレースの弱みに付け込んでレイプする。そして自分の妻には「グレースが誘惑してきた」と嘘をつき、グレースが女たちからも嫌われていく要因を作るんですよね。

そしてそんな女たちの嫉妬から、グレースはわずかなお小遣いでやっと7つ集めた宝物の置物を壊されてしまう。もう無害で善良だったはずの村人たちの面影はどこにもない。。

 

閉鎖的な環境での退屈な田舎生活も起因しているのかもしれないけど、最終的には逃亡防止用の重い首輪をつけたり、どんどんエスカレートする嫌がらせを見ていると、とにかく刺激に飢え、欲求不満だったんだろうなあという感想しか出なかったです。特に後半以降は未熟な子供がやるいじめと何も変わらなかった。

 

ラストシーンで語られる「傲慢」とは

ラストシーンでは村人たちのあまりに非人道的な行為のせいで、「村人全員がギャングによって皆殺し」というラストにもかかわらず観客側は言いようもないカタルシスを体験できます。

7つの置物順番に壊した人にはその人の7人の子供を順番に殺したり、グレースは自分がやられたことをできるだけそのまま報復します。そして相思相愛だったはずのトムは自分の手で射殺します。

 

でもグレースは初め報復を嫌がりました。「あの人たちはかわいそうなの」と言って。その言葉に対してギャングのお父さんは「お前ほど傲慢な人間は見たことがない」と言います。ここで「え?」と戸惑った人は多いんじゃないのでしょうか。こんな聖人のようなことを言うグレースのどこが傲慢なのかと。

 

グレースは社会的弱者である村人を見下し、許してしまった。その許容が何よりも「傲慢だ」と言っているわけです。グレースの何もかも受容してしまう姿勢こそが村人の仕打ちを助長させ、村人たちの醜さを露呈させてしまったのだと。

欲望がむき出しになり、一度理性を失ってしまった村人を放置すれば、グレースがいなくなったところで新たな犠牲者が増えるだけです。グレースは未来の誰かのために、そして何より自分自身のためにけじめをつけざるを得ない状態に自分で追い込んでしまったのです。

 

そして映画の中でもこんなナレーションが流れます。

ナレーション「いけない、彼らは間違っている。正義を行うチカラがあるならそれを行使するべきだ。ほかの町のためにも人間性のためにも、そしてなにより一人の人間のために。そうグレース自身のために」

 

やられてもやり返さないことが美徳のように語られる風潮のある日本で、これは考えさせられるなあと思いました。もちろん映画ではやり返すことが正しいなんて言っているわけではなく、グレースはあくまでそうするしかないところまできてしまった、という描かれ方ですが。

 

 

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結局、答えはない

この映画はあくまでこうした人間の醜さを徹底的に暴いたところで終了し、結局答えは出ません。最初にも引用した通り「人間の「本性」を無視した観念的な道徳の無意味さを説く」映画なのであり、「人間ってこんな部分があるんだよ」と提示するのみで「じゃあ、どうしていけば平和に暮らせるんだろう」という答えの部分は観客に考えさせる作りになっています。個人的に僕はここがこの映画の真骨頂なんじゃないかと思います。

敢えて言うなら「ずっと考え続けること」こそが答えなのであり、人間の共存のあり方を考える前にまずは人間の「本性」から目を逸らさずに向き合う必要があるんだという当たり前のことに気づかされるし、その答えや結論を映画の中で安易に提示しないこの映画の構造が素晴らしい。これはきっと、誰かと観るんじゃなくて一人で悶々としながら観るべき映画なんだろうと思います。

 

 

余談ですが、この映画のこの撮影の裏側を収録したドッグヴィルの告白も合わせてオススメです。

スタジオの片隅に設けられた“告白室”でキャストたちが心情を吐露するんですが、ニコール・キッドマン「あんなクレイジーな監督と、もう一日たりとも一緒に居たくない。早くお家に帰りたい!」と言っているあたり、白線だけの簡易なセットで演じる不安以上にラース・フォン・トリアーの容赦のなさが想像できます。(ダンサー・イン・ザ・ダークの撮影でもビョークが逃げ出している)

 

 

 

 

 

 

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