大学生の退屈しのぎ

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川端康成「眠れる美女」を読んだ。眠った少女の横で人生を回顧する老人

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たちの悪いいたずらはなさらないで下さいませよ、眠っている女の子の口に指を入れようとなさったりすることもいけませんよ

 

「男」として役割を果たせなくなった老人が、裸で眠っている若い娘たちの隣で人生を回顧するという川端康成の代表作。

新潮文庫眠れる美女の表題作であり、他にも「片腕」「散りぬるを」が収録されている。

この話に関しては三島由紀夫がすごく面白い論評をしていて、後ろの解説に掲載されているので是非それも合わせて読んで欲しい。

 

1.眠れる美女

若々しい女の肉体、肌の匂いを通して思い起こされる自分の生の記憶と迫っている死の実感。裸で眠らされている女たちに感じる性欲は、決して女たちの目に触れることのない性欲である。

老人たちにとって、女たちの反応が存在しないということは自分が男として「終わった」ということを思い出さなくて済む唯一の方法なのかもしれない。そしてそんな風に自分の現実に蓋をしたまま性的享楽に耽れるということが、江口老人含む老人たちが何度も宿に足を運んだ理由なんだろう。そして「男」でなくなった老人たちにはその性的享楽が肉体的快感を伴うものでない、観念的なもので納得するしかないのだ。

 

女たちの感応を求めない性慾を三島由紀夫は純粋性慾であり、相互の感応を前提としないという点で「愛」からもっとも遠い性慾の形だと述べている。そしてこの宿の主が「この家に悪はありません」と言っている点で、川端康成は対象を滅ぼすような「愛」が「悪」であると考えているのではないのだろうか、と。つまり老人たちの縋るような若い女の肉体への未練は「決して対象に知られない」という理由で悪になり得ないのだ。三島由紀夫「こんなに反人間主義の作品を見たことがない」と言っているが、それはこのせいだろう。悪なのは性慾そのものではなく、相手にそれを受け入れてもらい、蝕んでいくことだとこの小説の中で描かれているのだから。

 

 

老いていくことの怖さと、呼び起こされるかつての甘い体験の追憶。一人の老人の抱えた複雑な思いがこんなにも綺麗で変態的な純文学に昇華させられる川端康成はすごい。雪国では性描写が「結局この指だけが、これから会いに行く女をなまなましく覚えている」という箇所しかないというのは有名な話だけど、眠れる美女では登場する女性たちが何も話さない上に行動もしないので、その体の描写や、顔のパーツ、匂いなど肉体的な部分の描写が執拗なくらい細かく描かれている。だから、そういう意味でのドキドキ感、甘い悪夢みたいな感覚は楽しめる読書体験だと思う。

 

2.片腕

「片腕を一晩お貸ししてもいいわ。」と娘は言った。そして右腕を肩からはずすと、それを左手に持って私の膝においた。

 

こんな風に私がきれいと思うのを娘は感じていたらしく、肩の円みをつけたところから右腕を外して、私に貸してくれたのだった。

 

女が“貸して”くれた右腕と眠っていると、朝起きたら自分の右腕と娘の右腕を付け替えてしまっているという話。「右腕を貸す」という行為が当たり前みたいに書かれているので、そこを飲み込まないと全く先に進めないのだけれど、ここにあるのは会話や性行為とは違う、歪な人間のコミュニーケーション願望なのかもしれないと思った。

 

「ああっ。」私は自分の叫びで飛び起きた。ベッドからころがり落ちるようにおりて、三足四足よろめいた。

ふと目がさめると、不気味なものが横腹にさわっていたのだ。私の右腕だ。

 

悪夢を見ている感覚で言えば、眠れる美女よりもよっぽど片腕の方が強烈だった。自分でも無意識の間に相手の一部を自分のものにしてしまおうとする傲慢さ。でも私は朝起きてすぐ「魔の発作の殺人のよう」な衝動で自分の腕と娘の腕を乱暴に付け替えてしまう。つまり、自分の腕を自分の肩につけて、娘の腕を放り出す。

 

「ああ。」

私はあわてて片腕を拾うと、胸にかたく抱きしめた。生命の冷えてゆく、いたいけな愛児を抱きしめるように、娘の片腕を抱きしめた。娘の指を脣にくわえた。のばした娘の爪の裏と指先きとのあいだから、女の露が出るなら.......。

 

そして、その強い衝動の後に自分が投げ捨てた娘の腕を見て深い悲しみに沈み込んでしまう。片腕を交換することはなくとも、こんな経験って誰にでもあるんじゃないかと思う。他人の一部がいざ自分の領域に入ってくると、自分でそれを望んでいたのにも関わらず、それが気持ち悪くなってしまうこと。そして、そんな強い嫌悪感の後に、たまらなく悲しくなって、やっぱり愛おしくなって抱きしめたくなることって。それを腕の交換という視覚に訴える比喩で描かれているからやっぱり悪夢みたいに感じてしまうけど。

 

 

3.散りぬるを

滝子と蔦子とが蚊帳一つのなかに寝床を並べながら、二人とも、自分たちの殺されるのも知らずに眠っていた。

 

小説家の主人公が二人の美しい娘が山辺三郎という男に無残に殺された話の背景を想像していく話。この話で面白いのは、自分の中の悪魔と会話しながら、無意味なものに意味を見出そうとする「小説家な業」について描かれているということ。

加害者の山辺三郎は滝子と蔦子を驚かせてやろうと思って、強盗のふりして家に忍び込んだら短刀が胸に突き刺さってしまったのだと言っていたり、最後まで二人は驚いたり叫び声を上げることもなく「脅かしちゃいやよ。」と戯れるように言って、そのまま死んだと言っていた。

 

山辺自身に精神的に問題があったのか、本当のことはどうだったのかはわからないが、最後に主人公は悪魔とこんな会話をしている。

 

「ほんのたわむれだと信じて、息が止まるまで殺されると思わず、さからいひとつせず、お前の膝を枕に眠ってくれるような、そんな神仏のような殺し方がお前にできるかね。奇蹟だ、それは。」

「なんだ、それはおれが三人のために作ってやった小説じゃないか。」

「そうか。小説だったのか。」

 

そして続けてこうも書かれている。

 

悪魔に退散されてみると、私は省みて面を赤らめる。この一編は訴訟記録や精神鑑定報告に負うところがあまりに多い。私一人の小説であるかは疑わしい。しかし、文中諸所で述べたように、その記録も所詮は犯人や法官その他の人々の小説であるのだから、私もそれらの合作者の一人に加えてもらえばそれで満足である。

 

どんな記録も記述も、現実そのものと完全に関わり合うことは不可能であるということであるけど、主人公が小説として創作の殺人を作り上げたのは、三人を弔う気持ちであったということ。

 

ついでに、主人公の好きなセリフも載せておく。

「忘れるにまかせるということが、結局最も美しく思い出すということなんだな。」

 

これはいろんな出来事をいろんな形で保存できるようになった現代にも、意味を持つメッセージなんじゃないかと思う。忘却の流れに逆らって写真を撮ったり、日記をつけたりして思い出すたび現実はどんどん歪められていくし、意味のないものに意味を見出すのもそうなのかもしれないけど、それって小説家に限らず人間としての業なんだと思う。それが罪なのかは壮大すぎてわからないけど、そこにあるのはいつも悪意だけじゃないよなぁと考えさせられる。