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ヘルマン・ヘッセ「車輪の下」 感想 神童の少年が抱えた地獄

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ヘルマン・ヘッセの代表作「車輪の下

町一番の神童だった少年、ハンス・ギーベンラートの一生を描いた小説。

 

あらすじとしては、ハンスが受験勉強して州の試験を合格し、神学校に入学。でも子供の精神をぼろぼろにするような厳しい規律に耐えられなくなり学校を去って、見習工として出直そうとするという話。(以下ネタバレあり)

 

もともと釣りが好きだったハンスだが、自然の中を散歩し景色を眺めたりして感動する心は、神学校に入学して頭の良い奴らの中で必死に良い成績をとろうとしていくうちにだんだん薄れていく。

でもそんなハンスも神学校で「心」を取り戻すきっかけとなる少年、ハイルナーに出会う。森で自分の詩を読んだり文学や自然に感動する彼に会って、ハンスの心はだんだん変わっていく。ハイルナーはごりごり勉強しなくても勉強ができるタイプで、ハンスは模範少年の悪く言えばがり勉タイプ。周囲に溶け込むことよりも自分の信念をもつことを選び、喧嘩もいとわないハイルナーはハンスとは全く正反対のタイプだった。ハンスは勉強をしなければとわかっていながらもハイルナーとの時間を大事にし、恋人の手前のような信頼関係で友情を深めていた。

 

なんという人間だろう?ハンスの知っている心配とか願望とかいうものは、ハイルナーにはまったく存在しなかった。彼は自分の考えやことばを持ち、一段と熟のある自由な生活をしていた。風変わりな悩みをいだき、自分の周囲をことごとくけいべつしているように見えた。彼は古い柱や壁の美しさを解していた。(中略)同時に彼は憂鬱で、自分の悲しさを、他人の珍しい貴重なものででもあるように、楽しんでいるように見えた。(新潮文庫 p.108)

 

 

ハイルナーも自分の思想を聞いてくれるような人間を必要としていたし、ハンスも自分に全くない性質をもったハイルナーに強く惹かれていた。しかし、そういう大きな変化は生活をも変えてしまう。ハンスは周りの人間や大人を軽蔑しているハイルナーといるうちに、誰のためでもなく必死に勉強していく意味が分からなくなっていた。初めはハイルナーとの時間で減った勉強量を早起きしたり、ハイルナーに会う前に倍の勉強量を必死にこなすことで埋めていたが、それもなくなりぼんやりと物思いに耽ったりする時間が増えていくようになる。

ある日ハイルナーはハンスとの付き合いを校長にとがめられるようになると、「自分の意志は命令や禁止より強いことを示すため」にたった一人で修道院を抜け出す。彼は抜け出して2日目の夜につかまってしまい放校になってしまうが、最後の瞬間まで先生たちに屈したり謝罪したりすることはなかった。

ハイルナーがいなくなると、ハンスは先生たちからハイルナーの脱走を知っていたんじゃないかという疑いをかけられ、勉強にもますますついていけなくなり軽蔑されるようになっていく。ハンスは教師たちの非難に対して力なく微笑んでいるだけだった。

 

やがて症状がひどくなったハンスは自宅での休養をとることになる。天気が良いと森の中に寝ころで時間を過ごしたりしていたが、修道院時代のトラウマが気が付けば蘇り、心からの休息はとれなかった。

 

だんだんハンスは自殺を考えるようになる。ハンスの心は自殺を考えるという楽しみを見出し楽になっていく。縄をつるすための枝を決め、ハイルナーに長い手紙を書き、自分が死んでいるところを発見されるところを想像するとハンスは喜びを感じた。

 

運命は彼をして暗いもくろみを享楽させ、彼が死の杯から毎日数滴の快味と生活力を味わうのをながめていた。

 

やがてハンスはリンゴの絞り場でエンマという少女に恋をする。初めての感情に戸惑いながらも世界の色が変わってしまったようにわくわくする毎日を送るハンス。何度か逢瀬を重ね、恋愛のことを心得てるエンマにすっかり翻弄されてしまう。

しかし、エンマは何も言わずに去ってしまった。旅立ちの前日に会っていたにも関わらず、何も言ってくれなかったことからハンスは自分がまともに相手にされていなかったことを知る。

やがてその記憶から逃れるように機械工の慣れない仕事を始め再出発しようとするハンス。労働の喜び、仕事仲間と過ごす休日の楽しさも知るが、酒を飲みすぎたハンスは気が付くと川に溺れていた。

 

ハンスの事故死というラストを読んで、これでハンスは解放されたのかとあまりの境遇に思わずにいられない。神学校での挫折、失恋、労働。損なわれ続けたハンスの心に、それでもきっと襲い来る毎日はそんなものをいたわることなくやってきたと思うから。

 

ヘッセの自伝的小説であるということは知っていたけど、ハンスの親友ハイルナーの脱走エピソードもヘッセの体験に基づくものだということは読み終えてから調べて初めて知った。作品の中では対照的とされている人物がどちらも一人の人物、ヘッセ自身をモデルにしているということは考えさせられてしまう。

 

ヘッセは神学校に入学し、15で自殺未遂を経験する。そんなヘッセが大人の目線からハンス(幼いころの自分自身)を見たときに感じた憤りは本文のこの個所に強く出ている。

学校と父親や二、三の教師の残酷な名誉心とが、傷つきやすい子どものあどけなく彼らの前にひろげられた魂を、なんのいたわりもなく踏みにじることによって、このもろい美しい少年をここまで連れて来てしまったことを、だれも考えなかった。 なぜ彼は最も感じやすい危険な少年時代に毎日夜中まで勉強しなければならなかったのか。なぜ彼から飼いウサギを取り上げてしまったのか。なぜラテン語学校で故意に彼を友だちから遠ざけてしまったのか。なぜ魚釣りをしたり、ぶらぶら遊んだりするのをとめたのか。なぜ心身をすりへらすような低級な理想をつぎこんだのか。なぜ試験のあとでさえも、当然休むべき休暇を彼に与えなかったのか。

 

社会という車輪の下敷きになり救われずハンスが死んだとき、自分の分身が死んでしまったみたいに悲しかった。救いのない話だけど、年齢を問わず社会の色んな抑圧の中で生きているすべての人に響くものがある小説だと思う。